俳優から演出家、そして座・高円寺芸術監督へ
座・高円寺芸術監督のシライケイタ氏は、1974年東京生まれ。桐朋学園芸術短期大学演劇科在学中に蜷川幸雄演出『ロミオとジュリエット』でデビューし、俳優としてキャリアをスタートさせました。
2010年に劇団温泉ドラゴンの旗揚げに参加して以降、脚本・演出家としても活動の幅を広げ、日韓の歴史や社会を題材にした作品で高い評価を得ています。2013年に若手演出家コンクール優秀賞、2015年に韓国・密陽演劇祭で戯曲賞、2018年に第26回読売演劇大賞「杉村春子賞」、2026年には第33回読売演劇大賞で優秀演出家賞を受賞。
現在は日本演出者協会理事、日韓演劇交流センター会長も務めています。2023年、公募74名の中から座・高円寺の第2代芸術監督に選出され、「誰も切り捨てられることのない世界」「戦争のない世界」を理念に掲げながら、地域に開かれた劇場づくりに取り組んでいます。
俳優を志した少年時代から、挫折を重ねた20代、書くことへの転身、そして公共劇場の芸術監督として何を目指しているのか。今回、「SUGINAMIコネクション」ではシライケイタさんにお話を伺いました。
転勤族の子ども時代
僕は1974年、東京で生まれました。父は新聞社の社会部記者で、転勤がとにかく多い人でした。
だから子どもの頃は札幌に住んだり、群馬の前橋に住んだり、浦和に住んだり。小学校に上がるタイミングで、母の実家がある世田谷区に落ち着きました。
祖父母と同居する形で、家の2階を増築して家族で入ったんです。
「田舎」がなかった寂しさ
そんなふうに転々としていたので、いわゆる「幼馴染」と呼べる存在がいないんですよね。田舎もない。
父方も母方も実家がすぐそばにあるものだから、正月や夏休みに「田舎に帰る」といって友達がいなくなるのが、子ども心にすごく寂しかった。今も実家は世田谷にあって、両親はそこに住んでいます。
壁という壁が本棚だった家
うちの特徴は、家の壁という壁が本棚だったこと。父の仕事柄、新聞の切り抜きのスクラップファイルがぎっしり詰まっていて、寄りかかる壁が一つもない。
それが特殊なことだと気づいたのは、友達の家に遊びに行くようになってからです。今でも自分の部屋には壁一面の本棚がないと落ち着かない。あの頃の名残ですね。
僕自身は割と内気な子どもで、小学校に上がるまでは友達も多くなかった。1年生の頃は少しよそ者みたいな感じもありましたが、そのうち友達も増えていきました。
谷川俊太郎さんからの手紙、「生きる」への返歌
俳優になりたいと初めて思ったのは、小学6年生のときでした。きっかけがあります。
国語の教科書に谷川俊太郎さんの「生きる」という詩が載っていて、詩を書くという授業の課題で、僕はその詩を読んだ感想を詩のかたちで書きました。
谷川さんの詩のリフレインを真似て、「谷川さんは喉が渇きます、僕も喉が渇きます」「谷川さんはふっとあるメロディを思い出します、僕もふっとあるメロディを思い出します」「僕と谷川さん、違うところはないのに、なぜこんなに人を魔法の世界に引き込むような詩が書けるんですか、心の目が僕より大きいんですか」と、お手紙のような詩を書いたんです。
父と担任、それぞれが送った手紙
それを担任の先生と父が、それぞれ別々に谷川さんの住所を調べて送ってしまった。
お互い知らないうちに、です。
そうしたら、なんと谷川さんから返事が来ました。「圭太くんへ」という詩でした。
内容はこうです。
『ある人は家を建てます
ある人はチョコレートケーキを作ります
ある人はネパールのことばを話します
ある人はもう歳とって何もしません
人には出来ることと出来ないことがあります
ぼくはたまたま詩を書くように生まれついたのです
けれどぼくには家は建てられない
ネパール語だって話せない
でもみんなのどがかわきます
でもみんなふっと或るメロディを思い出します
そして心の目の大きさは誰にもはかれない
ただおたがいにみつめあうことが出来るだけ
ぼくの詩を読んでくれてありがとう』
この詩は今も僕の宝物です。
大人になって、谷川さんの息子さんで作/編曲家・ピアニストの谷川賢作さんとラジオでご一緒する機会があり、この手紙をお見せしたんです。それまであまり人に話さず自分の中に大切な宝物としてしまっていた返歌でしたが、この時を境に少しずつ、こういった公の場でも話すようになりました。
僕は何をするために生まれついたのか
「人にはできることとできないことがある。僕はたまたま詩を書くように生まれついたんだ」という一文が、小6の僕にはものすごく刺さりました。
じゃあ自分は何をするために生まれついたんだろう。そう初めて考えたのがこのときで、そこでパッと浮かんだのが「俳優になりたい」という思いでした。
これが、僕が演劇の世界を志す直接的なきっかけです。それ以来、演劇の道に進むこと自体を疑ったことは一度もありません。
高校時代 ― テニス部と、一人で通った芝居小屋
不思議なことに、演劇部には入りませんでした。演劇に興味はあったものの、中学・高校ではテニス部に所属し、団体競技よりも一人で取り組む方が自分には向いていると感じていました。演劇部も独特の世界に見えていて、その中に入ろうとは思わなかったんです。
その代わり、お芝居だけは一人で見に行っていました。通っていたのは青年座です。
進学校だったこともあり、周囲の多くは六大学や東京大学などへ進学していきました。そんな中、僕は学校の先生にも反対されながら、桐朋学園芸術短期大学演劇科への進学を決意しました。
「食える世界ではない」と分かっていても、それでもやりたいという気持ちの方が強かったんです。
蜷川幸雄氏との出会い
短大は2年間ですが、専攻科に進めばもう2年ある。蜷川幸雄さんの授業は専攻科(3年目)からしかなかったので、親にお願いしてそこまで進みました。そこで蜷川さんと出会ったんです。
「お前、俺の芝居に出ろ」と言われました。「仙川なんて村の中でいい気になってんじゃない。もっと広い世界に出ろ」と。
それが彩の国シェイクスピア・シリーズの第一弾、『ロミオとジュリエット』のパリス役でした。蜷川さんがその後亡くなるまでライフワークのように続けたシリーズの、記念すべき第一弾です。
ただ、当時の桐朋学園は外部出演が禁止されていたので、僕は学校を中退してこの舞台に出ました。
大きすぎる場所に放り込まれて
正直、まったく歯が立たなかった。彩の国さいたま芸術劇場肝煎りの、全38作品という壮大な企画の第一弾だったので、稽古場には大量のテレビカメラが入ってドキュメンタリーを撮っていました。
テレビでしか見たことのないような芸能人が主演で、その状況にただただ面食らって、緊張して、うまく泳げなかった。最初の体験ですよね。
仲間と少しずつ演劇を始めるのが普通の道だとすれば、僕はいきなり自分の理解を超えた大きな場所に放り込まれてしまったんです。
荒波の中で、とにかく立っていた20代
そこから僕の20代は挫折の連続でした。個人で作品ごとにオーディションを受けては、受かっても次につながらない。
野田秀樹さんの舞台に出たこともあれば、蜷川さんの舞台にも2回は呼んでもらいました。でも、蜷川さんが亡くなるまで、その後は一度も呼んでもらえませんでした。厳しい世界です。
舞台とテレビはまるで別物
テレビの仕事もしました。事務所に所属して、ドラマやCMに出ながら、舞台は年に1回程度。それだけでは食べていけないので、アルバイトをしながらの日々でした。
初めてテレビに出たとき、舞台の調子で声を張った瞬間、音声さんに「でかい」と怒られてヘッドホンを外されたこともあります。舞台とテレビはまったく別物だと、身をもって知りました。
「舞台出身の役者は演技力がある」というイメージがよく語られますが、僕の実感としてはあまり関係ないと思っています。箔付けのために舞台をやる人もいますが、それとこれとは別の話です。
書くことへ ― 温泉ドラゴンの旗揚げ
30歳頃に結婚して、子どもが生まれました。そして、もう一人。俳優という仕事は基本的に「待つ仕事」です。キャスティングされない限り、どうしようもない。
子どもが物心つく頃、「お父さんの仕事は何?」と聞かれたときに、「待ってるんだよ」とはどうしても言えないと思ったんです。売れていなくても、有名じゃなくてもいい。ただ、自分の意思で何かを生み出しているんだと言えるようになりたかった。
人類が獲得した行為の中で、一番能動的なものは何かと考えたとき、僕には「書く」という行為しか思いつきませんでした。本は昔から読んでいたし、文章を書くのも好きだった。ただ、戯曲を書いたことはそれまで一度もなかったんです。
飲み屋での約束から生まれた『escape』
そんな時に出会ったのが温泉ドラゴンでした。もともとは僕が作った劇団ではなく、劇団流山児★事務所にいた俳優仲間が劇団を辞めて立ち上げるという話を、アルバイト帰りの飲み屋で聞いたのがきっかけです。
「じゃあ旗揚げ公演を俺に書かせてみないか」と、酔った勢いで言ったのが最初でした。そうして書いたのが『escape』。これは今となっては少し封印したい作品ですが(笑)。
続く劇団としては第2回公演にあたる『BIRTH』ですが、脚本に加えて演出も任されたこの作品こそ、僕にとっての本当のスタートであり、対外的にも僕はこの『BIRTH』を第一作としています。
ソウルから届いた招待状―韓国との出会い
『BIRTH』の再演を、劇場のオーナーの計らいでフェスティバル形式にしていただいたことがあります。韓国から劇団を呼んで、韓国演劇のファンにも来てもらおうという企画でした。そこで来日したのが、当時の韓国小劇場界で名の知れたコルモッキルという劇団です。
三年間このコラボレーションを続けることになり、一年目に来日したコルモッキルが、僕たちを翌年ソウルに招いてくれました。
そのソウル公演を見た別の韓国の演劇人が、また翌年も呼んでくれて、三年目には韓国の地方都市をツアーで回りました。密陽演劇祭では戯曲賞もいただきました。日本より先に韓国で評価していただいた、という感覚があります。
大恋愛を探して、歴史に行き着く、「社会派」と呼ばれるようになった理由
この韓国とのコラボレーションの三年目、新作を書くことになりました。せっかくなら日本と韓国の間の物語を書きたいと思い、日韓の間に横たわる大恋愛の題材を探していたんです。
すると、どんな題材を調べても必ず歴史に行き着く。日韓の間に横たわる歴史的背景を抜きには、恋愛も友情も書けないということに、そのとき初めて気づきました。
天皇暗殺を企てた恋人たち
たどり着いたのが、日本人女性・金子文子と、朝鮮人活動家・朴烈(パクヨル)の物語です。この二人は天皇暗殺を企てた罪で逮捕され、裁判にかけられます。
この作品を書いたことで、僕は初めて「社会派」と呼ばれるようになりました。
書くものはすべて、根っこは社会派
自分ではその題材を「社会派として」選んだつもりはなく、大恋愛の物語として探した結果、たどり着いただけなんです。
ただ、それ以来、韓国と日本の物語は僕にとってライフワークのようなものになりました。自分で企画しなくても、韓国を題材にした依頼が来る。そして、社会問題を抜きにしてそれを書くことは絶対にできない。
だから結局、僕が書くものは全部、根っこのところで社会派なんだと思います。書こうとしているのはあくまで人間の物語なんですが。
コロナ禍、稽古場からの声
僕が座・高円寺の芸術監督に就任したのは2023年7月1日、公募74名の中から選んでいただきました。その転機は、2020年のコロナ禍にありました。
中止に追い込まれる稽古場で
2020年4月1日を初日とする作品を、劇団で3月から稽古していました。ちょうど宝塚や劇団四季が相次いで公演を中止する時期で、僕たちの公演もできるかどうか分からない状況の中で稽古を続けていました。
ちょうどその頃、若手演出家コンクールの審査員を務めていて、同じく審査員だった朝日新聞の記者の方に、稽古場のリアルな状況を書いてほしいと言われ、ウェブ媒体にエッセイを書きました。
「自粛の要請」はおかしい、自分で決めるはずの自粛を要請された以上、それは「他粛」であり事実上の命令だ、それならきちんと補償をするべきだ、という内容です。これが思いのほか多くの人に読まれました。
省庁への要請と「WeNeedCulture」
結局、僕らの公演も中止に追い込まれました。取材が相次ぎ、稽古場にはいろんな演劇人が集まってくるようになりました。みんな同じ不安を抱えていた。このまま中止が続けば、演劇を続けていけなくなる。
そこでみんなで内閣府や文化庁に要請に行き、記者会見を開いて窮状を訴えました。音楽界、映画界とも一緒に「WeNeedCulture」というグループを作って活動し、これが1年、2年と続いていきました。
こうした声の積み重ねが補正予算の成立につながり、支援金や補填の制度が少しずつ動いていったんです。
個人の活動が、図らずも公共になった
このとき初めて、それまで自分と家族、仲間のためにやってきた演劇が、図らずも公共的な活動になりました。この国は文化芸術に対する理解が本当に乏しい。
ドイツのメルケル首相は真っ先に「芸術家を守る」と発信しましたが、日本ではそんな政治家の声は聞こえてこない。省庁に訴えても、理解というより「騒ぐから金を出しておこう」という空気を感じました。
それでも、黙ったら制度は変わらない、動かないということを、あの時期に痛感しました。個人の活動を守るためにも、制度を変えなければいけない。そう考え始めたちょうどそのタイミングで、座・高円寺の芸術監督の公募があったんです。
自分のやりたいことをやるためにも、仕組みを変えていく、世の中の考え方を変えていく、土壌を耕す、裾野を広げる、そうした仕事は公共だからこそできることなんじゃないか。そう思って応募しました。
日本演出者協会との関わり
演出を始めて3年ほど経った頃、温泉ドラゴンの仲間に「賞の一つも取った方がいいんじゃない?」と勧められて、文化庁と一般社団法人日本演出者協会が主催の若手演出家コンクールに応募しました。
最終選考まで残り、最優秀賞は取れなかったものの、せっかくのご縁なので会員になることにしたんです。
演出者協会の理事は、500人の会員全員に被選挙権があり、2年に一度、投票用紙が配られて選ばれる仕組みです。現在は理事長を、そして日韓演劇交流センターの会長も務めています。気づけばそうなっていた、というのが正直なところです。
芸術監督としての理念
芸術監督としての僕の思いは、「世の中のあるべき姿をまず劇場が創っていく」という言葉に集約されます。柱は二つあると考えています。
一つは「誰も切り捨てられることのない世界」。ハラスメント対策を含むコンプライアンスの徹底、アクセシビリティの充実、区民に開かれた劇場運営、これらを通じて実現したいと思っています。
戦争のない世界
もう一つは「戦争のない世界」。武力で他者をねじ伏せようとする戦争は、対話と祈りの行為である舞台芸術の対極にあるものです。
舞台芸術を追求することを通じて、微力ながら平和の実現に尽くしたいと思っています。2026年には、山口県宇部市の長生炭鉱で起きた水没事故を題材にした作品を、韓国の劇団と国境を越えて共同製作しました。犠牲者の多くが朝鮮半島出身者だったという歴史に光を当てた作品です。
高円寺という街で
この街には広さと奥行きを感じています。
特に高円寺は商店街が充実していて、いろんな文化が混ざり合っている。
区政に感じるフラットさ
何より、区民の目線に立ってフラットに政治が行われているという実感があることが大きいと思っています。文化芸術への理解が感じられる区政であることも、嬉しいところです。
僕たちがこの劇場で実現しようとしていることと、杉並区が目指しているビジョンは近いところにあると感じています。杉並区の区政がこれだけ全国的に注目されているのも、そうした姿勢の表れだと思いますし、これからこの街の在り方が日本を変えていくかもしれない、そのくらい注目しています。
こんな小さな劇場ですが、ここで行われていることが、他の地域から見て誇れるような、区民にとって誇らしい場所にしていきたい。杉並区にはそれだけの包容力と発展性があると感じています。
余談ですが、駅前の花屋でよく花を買いますし、南側の商店街にある「信濃」というお蕎麦屋さんが好きです。おじいさんが打つお蕎麦が美味しくて、十割そばは早い時間になくなってしまうので、行くなら早めがおすすめです。
編集後記
今回、座・高円寺という公共劇場を舞台に、シライケイタ芸術監督ご自身の言葉で語っていただいた半生は、俳優として思うようにいかなかった時期、書くことへの転身、そして公共性への目覚めと、決して平坦な道のりではありませんでした。それでも「やりたいことをやったらいい」と語る監督の言葉には、その道のりを歩んできたからこその重みがありました。谷川俊太郎さんとのエピソードをはじめ、これまであまり語られてこなかったお話を聞かせていただけたことを、まいぷれ杉並区編集部一同、大変光栄に思っております。
お忙しい中、長時間にわたりインタビューにご対応いただいたシライケイタ芸術監督に、心より御礼申し上げます。
また、今回のインタビューの実現にあたり、企画から当日の調整まで多大なご尽力をいただいた座・高円寺広報担当・井上みなみ様に、この場をお借りして深く感謝申し上げます。
まいぷれ杉並区編集部では、これからもこの街で活動される方々の声を丁寧に伝えてまいります。