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杉並区 初詣にいくならここ! 編集部おすすめの神社

まいぷれ杉並区編集部が選んだ 初詣おすすめ神社2026

杉並区の「初詣スポット」を紹介します。 ぜひ参考にしてみてください

【阿佐ヶ谷】 神明宮

阿佐ヶ谷 神明宮

 

御祭神

天照大御神(アマテラスオオミカミ) 

天照大御神は、我が国で最も貴く、国家の最高神とされています。 御神名はいくつかの表記法があり、『古事記』においては天照大御神、『日本書紀』においては天照大神と表記されております。一般には天照大御神(アマテラスオオミカミ)の表記が最も親しまれています。 国土の創造神であるイザナギが、黄泉の国に下ったイザナミと別れ、黄泉の穢れを洗い流した際に、左目を洗ったときに誕生したとされています。このとき右目から生まれたツクヨミ、鼻から生まれたスサノオと共に、三貴子と呼ばれる。このときイザナギは天照大御神に高天原を治めるように指示し、最高神となりました。

 

寛政12年(1800年)に著された『江戸名所図会』によると、日本武尊が東征の帰途阿佐谷の地で休息し、後に尊の武功を慕った村人が旧社地(お伊勢の森と称される現在の阿佐谷北5丁目一帯)に一社を設けたのが当宮の始まりといわれております。 建久年間(1190~1198年)には土豪横井兵部(一説には横川兵部)が伊勢神宮に参拝したおり、神の霊示を受け、宮川の霊石を持ち帰り神明宮に安置したと伝えられ、この霊石は今も御神体として御本殿の奥深く鎮っております。 江戸時代から庶民の信仰が篤く、その一端を示す「内藤新宿仲下旅籠中仲下茶屋中」の文字が刻まれた文政十一年(1828年)の銅製の三本御幣が奉納されています。

 

平成二十一年秋に「平成の大改修」が無事竣工し、神明作りの御殿・神門、新しい祈祷殿・能楽殿などが誕生致しました。 境内地は約3000坪のうっそうとした森をなしており、シイ、カシ、クス、ケヤキ、イチョウ等の巨木も多く東京都内最大級の伊勢神宮勧請の神社であります。一方JR阿佐ヶ谷駅から徒歩2分の交通至便の地にあるため、年間を通し数十万人の参拝者で賑わいます。

 

ご利益

全国唯一の八難除

年齢からくる厄年の災い
方位や地相・家相を犯したことに起因する災い
火や水や人の災い
因縁からくる災い

 

住所:杉並区阿佐谷北1丁目25−5

WEBサイト

 

 

 

 


【西永福】【永福町】大宮八幡宮

大宮八幡宮

東京のへそ・子育厄除八幡さま

 

御祭神
応神天皇(第15代の天皇)
仲哀天皇(応神天皇の父君)
神功皇后(応神天皇の母君)


大宮八幡宮は東京のほぼ中心にあることから、「東京のへそ」とも呼ばれています。
和田堀公園の南、西永福駅と永福町駅の中間に位置している境内の面積は約15,000坪、大きな面積を有する宮ということで大宮と名づけられました。

 


源頼義により1063年に創建され、ご祭神は、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后で、仲哀天皇と神功皇后の間に生まれたのが応神天皇と言われています。

また、武蔵国一宮とされる氷川神社、秩父神社と共に武蔵国の三大宮とも言われています。

 


境内には2本の夫婦銀杏が並び立ち、縁結び、夫婦円満、子宝にご利益があると言われています。

 


 
ご利益
安産、厄除、交通安全、商売繁盛・社運隆昌、学業成就・合格祈願、心願成就、子授け・安産、家内安全、病気平癒

 

杉並区大宮2丁目3−1

WEBサイト


 

大宮八幡宮

神社

東京のへそ・子育厄除八幡さま

杉並区大宮2-3-1

【高円寺】 氷川神社(日本で唯一 気象神社)

【高円寺氷川神社】
日本で唯一 気象神社

 

御祭神

素戔嗚尊(すさのおのみこと)

 

境内には、3社の末社が祀られていますが、なかでも気象神社(祭神・八心思比顕命)は、全国でも数少なく、非常に珍しい神社です。
神話によると 高天原の最高司令官である高皇産霊命(たかみむすびのみこと)の子です。八意(やごころ)は様々な立場から考えるを「兼(かね)は兼任を表して一人で二人以上のことができるという意味の名前の通り、多くの人間の知恵を一同に結集されることができる「知恵の神様」です。
八意思兼命はその名の通り
『晴』『曇』『雨』『雪』『風』『霜』『霧』という八つの気象条件を司ることができるとされています。

 

氷川神社ご利益

家内安全・交通安全・良縁成就・就職成就

気象神社ご利益

快晴祈願・気象予報士合格祈願

 

杉並区高円寺南4丁目44−19 氷川神社

WEBサイト

 

 

【高円寺】 天祖神社

天祖神社

 

御祭神 天照皇大御神(あまてらすおおみかみ)

日本国民の総氏神で、皇室の祖神です。太陽を神格化した神様ともいわれています。

 

創建は、寛治元年(1087)と伝えられ、由緒は次の通り伝えられています。
当時、極めて敬神の念厚い郷土民山下久七が、伊勢神宮へ参拝し、御分霊を賜ってこの地に仮に社殿を建てて奉斎したことが始まりで、その後、永長元年(1096)に村人が議り産土神となりました。
現在の拝殿は天保2年(1831)9月、幣殿と本殿は明治21年(1888)2月に建設されたものです。
関東大震災後、当社の氏子区域内に居住者が急増したのを契機に、大正15年(1926)社殿の大修築とその他建物が整備され、昭和2年(1927)10月に村社となりました。

 

神社巡りが趣味のかたには狛犬の写真を撮影される方が多いようです。

住宅地にひっそりと存在しながらも風格のある神社です。

 

ご利益

諸願成就

 

杉並区高円寺南1丁目16−19

 

【永福町】和泉熊野神社

和泉熊野神社

 

御祭神
天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)
伊邪那美命(いざなみのみこと)

 

 社伝によれば、文永4(1267)年に紀州の熊野神社の分霊を祀ったのが創建とされています。弘安7(1284)年に社殿が修造され、その後戦国時代になると当時関八州に勢力を拡大していた後北条氏の北条氏綱が上杉朝興と戦い江戸城を攻略した際にも社殿を修めたと伝えられています。

 江戸時代の寛永16(1639)年と元禄9(1696)年の二度両度に渡り社殿の改修が行われています。現在の社殿は文久3(1863)年の造営で、明治4(1871)年に修復したものです。また、境内には江戸幕府三代将軍徳川家光公が鷹狩りの途中で休息し、その時に手植えしたと伝えられる松の大木もご神木となっています。

 

杉並区和泉3-21-29

 

【荻窪】荻窪八幡神社

荻窪八幡神社

 

御祭神

応神天皇(おうじんてんのう)/第15代天皇

 

第59代・宇多天皇の寛平年間(約千百年前)に創祀されたものと伝えれています。

永承6(1051)年には、鎮守府将軍・源頼義が奥州東征の途次宿陣し、戦捷を祈願。後、康平5(1062)年凱旋するにあたってここに社を修めました。戦国時代初期の文明9(1477)年、太田道灌が社前に植樹した「高野槙」社頭に聳える「道灌槙」であると伝えられています。その後数度の造営を経て現在に至っています。
平成23(2011)年3月の東日本大震災により、東参道の大鳥居が倒壊しましたが、氏子崇敬者の奉賛により同年9月、同規模の石造鉄骨入り大鳥居を再建しました。令和5年4月には社務所を鉄骨造にて建替えています。

 

ご利益

厄除・七五三・安産祈願・車祓・旅行安全・家内安全・病気平癒・合格祈願・心願成就・工事安全等

 

杉並区上荻4-19-2

WEBサイト

 

 

【荻窪】天沼熊野神社

天沼熊野神社


御祭神

伊邪那美命(いざなみのみこと)

 

旧天沼村の鎮守で、伊邪那美命(いざなみのみこと)が祭神としてを奉られています。
創立は、神護景雲2年(768年)東海道巡察使が武蔵国に来た時に氏神を勧請し別当を置いたのが始まりと伝えられています。また一説には、元弘3(1333)年新田義貞が北条高時を討つために鎌倉へ軍を進める途中にこの地に陣をしき、社殿を創設したとも伝えられています。

後に応永2(1395)年朝倉三河守がこの地に帰農した際、社殿を修理し、『 十二社権現 』と称するようになったと言われています。明治維新後、熊野神社と名称を改めました。

(公式HPより)

 

杉並区天沼2-40-2

WEBサイト

【阿佐ヶ谷南】猿田彦神社

猿田彦神社

 

御祭神

猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)

 


 猿田彦大神は天孫降臨(てんそんこうりん)の時 天野八衢(あめのやちまた)に迎えて啓行されて 天孫を高千穂に導きました。
 その後 天宇受売命(あめのうずめのみこと)に送られて伊勢の五十鈴の川上に来られて ここを中心に広く国土を開拓指導された地主の神と伝えられております。
 猿田彦大神の墳墓近くにある御船磐座(みふねいわくら)付近には椿大神社(つばきおおかみやしろ)が猿田彦大神の大本社として造営されております。
 当神社はこの椿大神社より猿田彦大神の御霊を勧請して創建されました。
 大神は古来より 物事のはじめに災害を祓い万事最も善い方へ導き給うとされ 特に地鎮祭・方位除・災除・建築・移転・開業・商工業の繁栄・豊作・豊漁・開運の御祈祷を全国から出願されております。

(猿田彦神社HPより)

 

杉並区阿佐谷南1-1-38

WEBサイト

 

【阿佐ヶ谷】馬橋稲荷神社

馬橋稲荷神社

 

主 神
宇迦之魂神  うかのみたまのかみ (稲荷神社)
大麻等能豆神  おおまとのづのかみ (御嶽神社)

 

 神社名の由来は、この地域の旧名馬橋村から。創建年代は鎌倉時代とも言われている由緒ある神社です。江戸時代初期の寛永年間には鎮座していたことが記録されています。江戸時代後期の天保年間御身体及び「正一位足穂(たるほ)稲荷大明神」の御神号を正式に賜り、明治時代に馬橋村の御嶽神社、白山神社、天神社、水神社を合祀して今日に至っています。

 ニノ鳥居は昭和7年に杉並村が大東京市に編入されたことを記念して奉納されました。御影石から昇龍、降龍の姿が彫り出された大変珍しい鳥居で東京三鳥居の一つと言われています。

 

杉並区阿佐谷南2ー4−4

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【久我山】久我山稲荷神社

久我山稲荷神社

 

御祭神

受持命(うけもちのみこと)

 

古来久我山の鎮守で、明治40年4月に字北原にあった天祖神社を合祀しました。高井戸の五社の一つに数えられます。例大祭は10月1日ですが、7月24日に夏祭が行なわれ、「湯の花神楽」を奉納しています。昔疫病が流行した際、村人が鎮守で神楽を奉納し祈願したところ疫病が止んだという故事によります。当日は午後7時頃に大きな釜を境内に据え、周囲に注連縄を張り廻し、火を焚き湯を沸かし小笹をひたしては打振り、神楽を奉納します。神楽を奉納した後には、丸い小さな餅を参詣者に投げ与え、この夏祭を終えます。

境内には明治32年に氏子が金玉均の手蹟を刻して奉納した「人心同」と刻した碑があります。元禄16年(1703)年に奉納された庚申塔の庚申には、養蚕の無事を祈願する村人から砧の槌が納められています。

 

ご利益

商売繁盛、五穀豊穣、所願成就他

畜産業などに対応

 

杉並区下高井戸4-39-3
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【永福町】永福稲荷神社

永福稲荷神社

 

御祭神

宇迦之御魂命

 

 永福町の氏神様としてずっとこの地に鎮座され、永福町と共にその長い歴史を歩んできました。

 社伝などによると戦国時代の享禄3(1530)年に、大永2(1522)年この地に永福寺を開創した秀天慶実(しゅうてんけいじつ)和尚が、永福寺境内に京都伏見稲荷大社より宇迦之御魂大神のご分霊を勧請し祀ったのが始まりとされております。江戸時代の寛永16(1639)年の検知の際、永福寺村の鎮守になったとのことです。
 明治維新後は、永福寺から分離して一社となり、今日に至っています。現在の社殿は明治11(1878)年に町全体を守るように西向きに建て直されたものです。赤い柱と白い壁のいかにもお稲荷様らしい雰囲気を持った社殿です。

 

杉並区永福1-24-6

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【西永福】下高井戸八幡神社

下高井戸八幡神社

 

御祭神

応神天皇

 

 社伝などによると室町時代の長禄元(1457)年に太田道灌が江戸城を築いた際、工事の安全を祈願し、鎌倉の鶴岡八幡宮の神霊をこの地に祀り創建したのが始まりと言われています。
 本殿は江戸時代の弘化4(1847)年に再建され、拝殿、覆殿は昭和34(1959)に落成しました。
 この地域は中世以降、周囲の村落の発達と共に神社が奉斎され、村の鎮守として尊崇を厚くしてきました。
 また明治末から昭和の初期に面芝居という神楽が流行し、昭和初期まで宮司を務めた宮司斎藤守高氏は芸の師匠であり神楽の元締めでもありました。現在は面芝居は行われていませんが、近年はドラマなどの撮影場所として神社境内が数多く利用され、「芸」のご縁が連綿と紡がれています。
 また神社周辺は縄文時代から古墳時代の土器類も発見されており、この地域は古来より人が居住するのに適した地域であった地域であったことがうかがえます。今日もこの地域の神社として地元の方々が日々お参りに訪れています。

 

杉並区下高井戸4-39-3

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【富士見ヶ丘】大宮前春日神社

大宮前春日神社

 

御祭神
武甕槌命(たけみかづちのみこと)

経津主命(ふつぬしのみこと)
天児屋根命(あめのこやねのみこと)
毘売命(ひめのみこと)

 

江戸時代前期の 万治年間(1658~1660年頃) に、旧大宮前新田開拓の際、名主・井口八郎右衛門が奈良・春日大社から神霊を勧請して建立したと伝えられています。

『新編武蔵風土記稿』には、春日神社として「除地二段五畝六歩」「小名本村にあり」「拝殿四間二間南向」など、当時の境内規模・配置も記されています。

明治5年(1872年)11月には 村社 に列し、近代社格制度の中で一定の社格を得ました。現存する社殿は、拝殿が明治10年(1877年)、本殿が明治21年(1888年)に造営されたもので、当時の神社建築の姿を今に伝えています。

 

杉並区宮前3-1-12

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【西永福】成宗白山神社

成宗白山神社

 

御祭神

伊弉冊尊(いざなみのみこと)

 

旧成宗村字白幡(しらはた)の鎮守で、『新編武蔵風土記稿』に「白山社」として記され、「除地六畝、東南ノ方小名白幡ニアリ、社ハ二間半ニ二間南向、社より十二間ほど隔てて鳥居をたてり」などの記述が残されています。

地名「白幡」に関しては、後冷泉天皇(在位1045~1068年)頃、源頼義(奥州征伐の時)が当地を通過した際、空に白幡のような雲がなびいたことに由来し、その霊を祀る意味で社を勧請したとの伝承が伝えられています。こうしてこの地を「白幡」と呼んだという伝えが、地名と社名の結びつきを示しています。

また、成宗村自体は中世期にさかのぼる古村であり、江戸時代に旗本・岡部氏の知行地となるまで歴史を経てきました。

昔は境内の配置として、本殿・拝殿の南向きの配置と、鳥居との間隔なども記されており、地域の信仰空間としての形が古文献に残っています。
 

杉並区成田東2-2-2

【南阿佐ヶ谷】成宗須賀神社

成宗須賀神社

 

御祭神

素戔嗚尊(スサノオノミコト)

 

成宗須賀神社は、かつての旧成宗村(現在の成田東・成田西一帯)の本村(本庄)鎮守として、地域住民に長く信仰されてきた神社です。 その祭神は 素盞鳴尊(すさのおのみこと) であり、祭神名をとって「須賀神社」と称します。
社の由緒には諸説ありますが、公式な記録の多くは安政年間の火災で失われており、詳細は定かではありません
江戸時代には、素盞鳴尊を牛頭天王と習合して「牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)」とも称されていました。これは、神仏習合・神仏混淆の信仰形態が強かった時期の名称です。 『新編武蔵風土記稿』にはかつての社殿の大きさや位置、例祭の様子などが記されており、「社は二間半に二間」「社から約20間離れて鳥居を立てる」「例祭は特定の日は定めず、農間に神酒を供す」といった記述が残っています。
明治維新後は、成宗村の村社としての地位を得ました。さらに、昭和33年(1958年)には社殿の新築がなされ、旧拝殿を神楽殿に改造するなど、現在見られる境内景観の基礎が整えられました。

 

杉並区成田東5-29-3

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【方南町】堀ノ内熊野神社

堀ノ内熊野神社

 

御祭神

大屋津姫命(おおやつひめのみこと)
五十猛命(いそけるのみこと)
抓津姫命(つまつひめのみこと)

 

社伝によれば、創建は鎌倉時代の文永4年(1267年)とされ、紀伊(現在の和歌山県)にある熊野三社の分御霊を当地に勧請したのが始まりと伝わります。その後、室町時代には武将・北条氏綱が上杉朝興(頼興)に勝利した際、江戸を攻略する流れで当社の社殿を修築したとの伝承が残され、江戸時代にもたびたび改修が行われたと伝えられています。社殿は総欅造(けやき造)であり、銘文によれば安政四年(1857年/一説では1857年2月)の造営が行われたといわれ、「安政四年二月吉日氏子当村住人井上龍三」と銘が刻まれています。その精巧かつ豪華なことは区内随一とも。

明治期には村社に列格(明治7年)され、また明治42年には、村内にあった第六天社および稲荷社を境内に合祀し、地域の信仰を包括的に収める場とされました。大正12年(1923年)には、桧造りの幣殿は大正12年(1923年)の造営で、この時旧幣殿を現在の神楽殿に改修しました。
昭和29年(1954年)に稲荷社・第六天王社の合殿社を改新築、昭和35年(1960年)には社務所を新築、同46年(1971年)には奥殿土台の修復・神楽庫の新築などが実施され、現在の姿となりました。

「火伏の神輿」と称される当社の神輿は、大正12(1923)年9月1日の関東大震災当日、浅草で買い求めましたが、地震発生後の猛火の中を無事帰着。今も祭礼の時、町内を渡御しています。

 

杉並区堀ノ内2-6-6

【荻窪】荻窪白山神社

荻窪白山神社

 

●関東管領家臣の邸宅から始まった神社

関東管領・上杉顕定の家臣であった中田加賀守が、自邸内に五社権現社を祀ったのが始まり。その後、白山信仰と融合して現在の「白山神社」の姿となりました

 

●ご祭神とご利益、歯の神様と呼ばれる所以

ご祭神は、伊邪那美命(いざなみのみこと)「子育て」「安産」「縁結び」などにご利益があるとされています。
しかし、白山神社のユニークな点は、なんといっても「歯の神様」としての信仰。
あるとき、中田加賀守の弟・兵庫が歯痛に悩んでいたところ、「境内の萩の枝を箸として使い食事をすれば癒える」という神託が降ります。実践してみたところ、見事に痛みが治まったと言い伝えられており、その後「萩の箸」を奉納する風習が生まれたのです。
1967年の社殿改築時には、古い長押(なげし)から実際に萩の箸が多数発見され、伝承の信ぴょう性が強まりました。

 

杉並区上荻1‑21‑7
WEBサイト

【荻窪】天沼八幡神社

天沼八幡神社

 

ご祭神の誉田別命(ホンダワケノミコト)は、第15代応神天皇(おうじんてんのう)と同一とされています。応神天皇は、記紀の伝承によれば父は仲哀天皇であり、母は神功皇后でありました。

この天皇は又の名を誉田天皇(ほむたのすめらみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと)、
大鞆和気命(おおともわけのみこと)などとも称されておりました。

「日本書紀」によれば、神功皇后が朝鮮に遠征した際に すでに胎内にあって、新羅を征封し帰国したのち、筑紫(福岡県)の地でお生れになりました。大和にお入りになり皇太子となり、母の死後の翌年には即位されたと記されております。

八幡神社は大分県宇佐市にある宇佐神宮を本社としており、奈良時代から皇室の篤い信仰を受け平安時代には京都府の石清水八幡宮が創建され、都の守護神として宇佐神宮より分霊がお祀りされました。

さらに鎌倉時代には鶴岡八幡宮も創設され、清和源氏の氏神として崇敬されました。

こうして、各地の武士の守護神となり全国に約25.000社(全国の神社の三分の一)もあります。(同じ八幡系は杉並区内に大宮八幡宮、井草八幡宮、荻窪八幡神社、下高井戸八幡神社と当社の五社鎮座しております)

 

杉並区天沼2-18-5

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【善福寺】井草八幡宮

井草八幡宮

 

ご祭神

八幡大神(やはたのおおかみ)

応神天皇

 

 井草八幡宮は、南に善福寺川の清流を望み、今なお「武蔵野」の面影残る秀麗の地に鎮座し古地名を冠して遅野井八幡宮とも称せられました。
 善福寺川の源泉である善福寺池が豊富な湧水であったことから、この付近にはかなり古くから人々が生活していたと考えられ、境内地及びその周辺地域からも縄文時代の住居跡や土器等が発見されています。
 当宮は創建当時、春日社をお祀りしていましたが、源頼朝公が奥州藤原泰衡征伐の際に戦勝祈願をして立ち寄ったと伝わっており、それ以来八幡宮を奉斎するようになりました。奥州平定後、源頼朝公が報賽のため手植えしたと言われる松が当宮社殿前に雌雄二本植えられておりましたが、雌松(赤松)は明治初年に枯れ、都の天然記念物であった雄松(黒松)は昭和四十七年に強風で大枝が折れ、翌年には残念ながら枯れてしまいました。(現在は、二代目の松が植えられています)
 源氏が八幡神を氏神として尊崇したことから武神の性格が強く、室町時代には石神井城の豊島氏征伐のため、扇ケ谷上杉家の執事太田道灌が戦勝祈願をしたとも伝えられています。江戸時代には、三代将軍徳川家光による六石余の朱印領 (将軍の朱印状によって領有を認められた土地)の給付、また寺社奉行井上正利に社殿造営をさせるなど、篤く崇敬されていました。
 また、旧上井草・旧下井草は、正保二年(一六四五)以降、奥高家である今川氏の領地となり、とりわけ今川氏堯によって寛文四年(一六六四)に本殿の改築等なされ、寄進された一間四方の本殿は杉並区最古の木造建築物となり、現在も本殿として覆殿に納められています。
 明治以降も氏子崇敬者によって社殿の改修、境内の整備が行われ、都内でも有数の広さ(約一万坪)を誇り、現在は神社本庁別表神社に指定されています。

(井草八幡宮HPより)

まいぷれ編集部が訪れた杉並区街角の神社

稲荷大明神

杉並区高円寺北2-29-18

伏見稲荷神社(西荻伏見通り商店街)

杉並区西荻北3-2-10

浜田稲荷大明神

杉並区浜田山3-4-2

※取材時点の情報です。掲載している情報が変更になっている場合がありますので、詳しくは電話等で事前にご確認ください。

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